音楽的断章 ー いくつかの私見

大野眞嗣

1.ホールにおいての響き

近年、日本においても、東京を中心に新しく本格的なクラシック専門のホールがたくさん作られています。そのような場所で、私が実際に演奏したり、コンサートで聴いて感じるのは、まるでヨーロッパのコンサート・ホールを思わせるような残響時間が比較的長いホールが増えてきたことです。

これは日本の気象条件、そして木造の家でピアノを練習する空間とはまったく異なっています。このことは、実は大変大きな問題であるということに気づくべきなのではないでしょうか。なぜならば、奏者は、通常、日本の狭い家屋で練習することによって、その音響に耳が慣れてしまっているはずで、それをそのまま、残響時間の長いホールで実践していいわけはないからです。

私が思うに、日本においての一般的なタッチで、音の立ち上がりを聴きながら奏している奏者が、残響時間の長いホールで弾くのを聴いていると、まず、音の混乱、音の洪水のような現象を耳にします。しかも、客席には届かないステージの上だけで音が舞ってしまう状態です。それは、速いテンポや音量が大きいほど、増長されます。なぜならば、そのようなタッチで生み出された音は、音の伸びがなく、立ち上がりの音同士がぶつかり合ってしまうように感じられるのです。例えて言うならば、そのような音は固体の物体を想像させる硬い響きであり、そのような性質の音と音とは混じりあわないのです。

それに対して、伸びのある音で弾くと、その1つ1つの音は、もはや固体ではなく、液体、もしくは気体を連想させるような響きになり、美しいハーモニー、調和が、空間いっぱいに広がってゆくのです。

そのように弾くことによって、本当の意味で奏者の耳に、自身の音の響きが聴こえ、それを聴きつつ演奏ができるのです。

また、そのような演奏がなされているときに、聴いている多くの方々が思い、口にする言葉があります。

「この人は、よく耳を使っている。よく聴いている。」といった類の表現です。

聴いている者に、このようなことを感じさせることのできる演奏は、往々にして、響きの豊かな、伸びのある音で弾かれたときなのです。

 


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