音楽的断章 ー いくつかの私見

大野眞嗣

日本の学生について感じること

私自身の学生時代、また、一般的に音大生の演奏を聴きますと、技術的な観点から見た場合、ある意味において、既に完成された地点に到達してしまっていると感じます。意地悪く言えば、限界にきてしまっているということです。

そんな学生が、世界中のピアニスト、もしくは、彼らが心の中で憧れているピアニストの演奏を聴いたときに、彼ら自身の演奏のレベルよりも、はるかに上質な演奏をしているという現実を感じている人も多いはずです。

大きな夢を持った人ならば、もしかすると、自分もそのような演奏ができるようになれるかもしれないと思い、より高い目標を持って勉強を続けるでしょう。また一方では、自分の演奏の質に疑問を抱くことなく、ただ漠然とレパートリーを増やし、次から次へとコンクールに挑戦するといった、社会的成功への意識に傾いている人もいるのではないでしょうか。

なぜ、後者のような考えが生まれるのでしょうか。それは、日本の社会の中で、勉強を続けるということが困難な現状からくる、心の焦りが原因に思います。現に、私の留学時代、日本人留学生の中には、ヨーロッパに住んでいるという利便性もあって、国際コンクールを受けまくる人もいました。それとは対照的に、何も受けずに、研究ばかりしていた私でしたが、そのような人たちからすると、考えがあまい、現実性に欠けるといわれたものでした。

そもそも、音楽家の人生というものは、大学の卒業が節目となり、社会人になるというものではありません。これは、音楽の分野に限らず、それぞれの分野で研究者となる人にとっては、本来、一生が勉強であり、一般社会の常識、つまり、大卒=社会人とは異なります。このことを、社会が理解し、温かい目で芸術家を育てる環境が必要に思います。

それはさておき、幸運にも、勉強が続けられることが許されている若い人たちの話に戻しましょう。大学卒業後、ヨーロッパなどへ留学、もしくは、日本に留まり、勉強を続けている人も多いと思います。

文頭で述べましたが、ある意味での技術的な観点で、完成されてしまっている人たちは、その技術という器の中で、作曲家や作品についての深い理解を求め、その方向で研究をするといった傾向が強いように思います。それによって、自分自身の演奏も変化、成長すると思っている人が多いかもしれません。確かに、専門家として、ピアノに携わってゆく以上、そのような研究は不可欠です。それぞれの作曲家の人生をたどり、多くの知識を得て、作品の特徴を、あらゆる面から考察し、演奏の方向性を見出してゆくことは重要です。

しかし、知識は豊富で、達者に弾いている人の演奏でも、残念ながら、その研究したことが演奏に反映されていないと感じることがあります。それは、演奏する上での基礎的な表現する技術に対しての研究が不足している場合、または、演奏行為において、表現するということの本質が何なのかに気づいていない、知識を得ただけで満足してしまっている状態のように感じます。大切なのは、その表現手段を研究し、自分の感じるところの作曲家や作品の解釈を演奏に反映させるべきで、知識だけでは、演奏は成立しないということです。

その研究方法のひとつとして、自分の憧れのピアニストの演奏を、よく聴き、観察することです。一般的に、それを否定する教師の方が多いと思いますが、私個人としては、あえてそうするべきだと述べたいと思います。それは、演奏の表面のみを捉えることではなく、その表現や演奏方法を、そのピアニストのごとくに内側から感じられるようになるまで研究することです。そうすることによって、それまで聴こえてこなかった音色の表現、あるいは、気が付いていなかった表現のための技術や合理的な技術の存在を確認できるはずです。

私の場合、スビャトスラフ・リヒテル、ウラディーミル・ホロヴィッツ、エリソ・ヴィルサラーゼ、マルタ・アルゲリッチ、グレゴリー・ソコロフたちのCDや映像から、多くのことを学ぶことができました。そこには、当初の私の想像をはるかに超えた世界が存在し、結果として、私自身の演奏行為そのものを根底から覆すものとなったのです。

大学生ともなれば、将来の人生設計も具体的に考えるでしょうし、それまでの長い間、苦労して培ってきた、自分のピアニズムに執着するのも自然なことかもしれません。しかし、エリソ・ヴィルサラーゼの言葉にもありましたが、ピアニストは一生をかけて、あらゆる研究を続け、どんなに困難であろうとも、音楽に対して深い愛情を持ち続けるべきです。

  


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